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町屋のくらし

 山形県長井市。その昔は商業の興りから発展したまちだ。小桜舘や白山舘はあったが、それぞれの時代では軍事的な拠点としてではなく遍照寺の存在から発展した。約五百年前、店が出来始める。
 どのようにして町屋ができたのか、丸大扇屋のなりたち、往時の生活等、のぞいてみよう。


宮村の店の始まり この宮に少し店が建って商売も行われるようになったのはいつか? ということになりますと、だいたいその年代は大永年間、1523年頃から出始めた。いったいどのような形で店が興るのかというと、履物は藁で作り、雨具は藁で箕などを作る。笠も菅で作るというような、自給自足の生活でしたから、それほど店は必要としなかったようです。
  だんだんと世の中が開けてくると、自家用品だけでは間に合わなくなり、しかも京都のすすんだ生活の様子が、風のたよりに伝わってくると、資産を持っている人は金を出し・・・・・。何が始まったかというと、宮のお祭りが九月十九日。その頃は十七、十八、十九日でしたが、それをきっかけにして約1ヶ月間、宮で市が開かれたのです。ちょうど風間書店の通り辺りでした。その頃、両側に
「坊」が六つありました。風間書店の北の後ろに茅屋根の建物がありましたが、あのような建物が六棟ほどありました。


桜の木の陰にひっそりと佇む  もともとは安部印房さん宅の前にあった


当時 市が開かれていた 現在の道とほぼ同じ

  
            
現在のまちなみ  奥に遍照寺がある

  「坊」というのは坊さんが修行して泊まったり、参詣に来た人が泊まったりしていた所だったのです。 そこで1ヶ月間、市が開かれる。農家では臼を作ったり、はしごを作ったり、日常生活で必要な道具を安く売り出すわけで、あるいは米なども出たし、小さい農家は一年分の米は作れなかったから、そこで米を買った、ということです。 その市は一年に一度だったが、それから定期的になり、例えば一の日というと、五日、十五日、二十五日と月3回行われました。それは三齋市などといわれ、その当時、十日、二十日、三十日に開かれたから、十日町の名前が付いたのではと思われます。

  それはずっと続いて江戸時代まで行われましたが、だんだん専門店ができ、店が建つようになりました。
  上杉景勝が慶長六年(1601)ここに来た時、それぞれの部落の店のあるところを、書き上げさせており、宮村家業の数、という文章があるんですが、それを順序取り替えて整理してあるのがこの表ですが、他屋(たや)というのは質屋さんのことでした。
  絹とか青苧の問屋がありまして、大きな店というのが上段にあげたつもりです。酒屋、玄穀屋というのは、米屋のことです。中以下の小さい店というのは二段目にあげましたが、次に蝋燭、鬢付、菓子、八百屋、酒小売です。
  次は魚屋、干物屋でしょう。飴屋、豆腐屋、饂飩屋。これらの店は、店の形はあったけれどもだいたい自分の家で品物を加工し、あるいは集めて売る。そんなに数が売れるわけではないですから小さいのです。
  だいたい半商半農。暇なときに百姓して、晩方頃、人が買いにくると奥の方からのそのそと出て来て売る。という程度でした。だいたい六反百姓だったから、やっと自家で食べる分とちょっととれる程度でした。
  職人がその次であって、油〆、塗師、漆ですね。鍛冶屋、綿打ちというのは、今の綿じゃなくて青苧綿で、木の皮を柔らかくする綿打ちで。石切り屋、染屋、桶屋、たがやもいますけれども。「番太」というのは別枠にしてありますが、自治警察署と思っていただいてけっこうです。そのほか、伯楽、これはばくろう。浴屋というのは風呂屋のこと。医師、仏師、神主、巫女、座頭は目が見えない人、遊女、揚屋(あげや)とありますが、揚屋というのは、遊女を派遣するところで、宮もちょっとした町であり、米沢の次くらいの町だったと思います。この間、ご年輩の方と色々お話をして、「揚屋さん、女郎やさんなんてどこにあったんだ」なんて話をして。明治五年頃まで大町にありました。それが明治になり、きびしくなって町中にそういうものがあってはうまくないということで、東町の川原に集められたということです。

 
宮村家業の数
他屋(質屋)三
絹糸問屋  二
苧問屋   三
酒造家   九
玄穀屋   五
蝋燭鬢付  一
菓子屋   二
八百屋   六
酒店    四
魚屋    四
飴屋    四
豆腐屋   七
饂飩屋   三
油〆    四
塗師    四
鍛冶    四
綿打    八
石切    一
染屋    五
桶屋    三

 
伯楽    一
浴室    一
医師    一
神職    三
巫女    一
座頭    一
遊女   一三
揚屋    三
番太    一
 

屋台の出た鎮守の祭
 それまでの室町の時代、伊達の時代というのは、例えばここに宮の舘がありますが、その人は専業軍人じゃなく、自分で十町分ぐらい耕しておって、余っているところ・・・。だいたい宮村を一つ納めると、一千石ぐらいの田圃があって、それを家来や小作に与えているわけですが、戦争が始まると、その主人だった人は、戦争に連れて行かれるが、自分も百姓してますから、田植時期になるとそちらの方が心配になって、戦争の気がなくなる。
  稲刈り時期も同じで、戦争がいやになる。ですから、川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が七年の戦いでも、七年間戦い続けたわけじゃないですよ。農閑期、農業の忙しくない時だけ出て行って、にらみ合いして、だんだん秋の収穫時になるとやめて家に戻るという状態。それはどうしてかというと、敵も見方も半農半武士でしたから、お互いのふところ具合いと苦労がわかるから、それほど重い税金は取りませんでした。最高で三割だったようです。江戸時代のひどいときは、上杉は六割とりました。ですからそれに比べるとずっと軽いです。今の税金だって勤め人の方、三割取られてますよ。もしかするとそれ以上かもしれません。所得税から退職年金の積み立て金から、医療費の共済組合費から。おそらく三割を越すと思いますが。ですから三割というのはけっして高いわけではなく、昔なりに豊かなくらしをしておったと思います。 一年に一度の村祭にはあらゆるエネルギーを消費して祭をやったと思います。後に書きましたが、
    米沢宮村鎮守祭礼は久しきこと その初め知らざれども 宗任在国のころすでにそのことありて 三日月 
    灯籠漁船の御輿を出したることなりと 住人いえり 中世より 又七月十八日夜御輿小出村白山権現まで
    渡御(とぎょ)ありて 屋台と言うものを出す 
 ですから宮から本町を通って白山神社まで屋台が出た。これは「牛の涎(よだれ)」(長沼牛翁)にも書いてかりますが、いったいこの屋台はどんなものだったのだろうか。本当にあったかどうか長年気にしておったんです。が、後で詳しく説明しますが、実際あったんですね。

 今は長井では行われておりませんが、新庄とか花巻に長井のものと同じ屋台があります。人形の頭と手を借りて、歌舞伎とか物語の、例えば「五条の大橋の義経と弁慶の戦い」の場面を想定して作って、車に上げてやる屋台です。人形屋台です。これが行われたことがわかったわけです。


     人形具の貸出帳(文政五年  1822)

  次の文章にありますが、屋台を造るのに金と労力がかかります。今日、新町だけで屋台一台出す元気があるでしょうか。「本町地区で一つ屋台作ってこい」といわれて出せるでしょうか。なかなか出せないと思います。 この頃、屋台一台を頑張って出せたということは、相当生活にゆとりがあったということだろうと思います。その生活のゆとりの原因はなんだかというと、臼ヶ沢金山というのが蚕桑の奥にありますが、寺泉の奥でも伊達時代・慶長の頃まで金が相当採れていました。新町に金堀源三郎というものが住んでいましたが、奥州の半田銅山あたりで経験して来て金堀りの名人といわれ、このへんで指導していました。
  山から新町までしょっちゅう通っておったわけで、途中三、四人で寺泉かどうかわかりませんが、通りかかると百文落ちておったんですね。誰も拾わなかった。そこでおもしろいなあと思って、二百文だと拾うべかと百文足して様子をうかがったら、拾うどころか誰かがいたずらしたのか四百文になっておったということです。これはおもしろいと思って皆でかき集めて四百文に四百文足して八百文にしてみた。でも誰も拾うものがなかった。金がたくさん採れ、人の生活が豊かになると、これほど道徳にゆとりがでてくるものかと、ウーンとうなった。と金堀源三郎の話として載っておりましたが、そのような時代があったということですね。


長沼家の祖先
 それで丸大というのは、昔のことは伝説的でわかりませんが、飯豊町の椿に長沼さんの系統が関東から流れ流れて来たことはまちがいありません。 関東の武蔵七党の中に長沼という家があり、戦争の時代ですから、戦に負けたんでしょう。おそらく一族が伊豆とか北の方では会津とか椿に流れて、そのうちの一人、初代又右衛門という人が、1600年代に、慶長のちょっとあとになりますが、椿にいてもしかたがないからと、宮に来て商売でもして一旗挙げようかということで来たらしいです。 それが非常に運が良かったというか、元禄七年、1694年ですから、だいたい六、七十年経った頃、最上川が開通して宮に舟場ができ、昔の道は荒屋敷といって今の病院の通りですが、いろんな品物がどんどん入るようになり、時代の波に乗ったんでしょう。長沼家の商売が繁盛した一つの原因ですね。

創業当時の商品 
 最初、何を商っていたか、三代目忠兵衛の時、取扱商品を拾ってみると、むしろ・ござ・縄・みの・脚半・傘笠・きせる・煙草・矢立・蝋燭・膳椀。・米ぬか・紙・中折・刷毛・にがり。かみそり・糸、なんでも屋でした。しいて言えば荒物が多い、そういう店でした。生活必需品を主に売っていたようですが、それがだんだん最上川交通が盛んになると、長井商人には先見の目というか、気迫というか、非常に感覚的に鋭いものがありました。

幕末の営業内容
  元禄からしばらく経って、享保の頃になると上杉藩というのは貧乏するんです。なぜ貧乏したかというと、越後におったときは二百万石の殿様だったのが、秀吉にだまされて会津に移ってもまだ百二十万石の大名でした。
  関ヶ原の戦いで負けた方に味方しましたから、結局石田三成の方に味方したということで、取りつぶしになるところを、直江兼継の機転で、三十万石に減らされてとどまるのです。上杉景勝という人は非常に律儀な人で、家来に今まで百二十万石だったのに、今は米沢の三十万石になってしまった。今まで仕えてくれてありがたいが、もうここらで駄目だと思ったら見切りをつけて他へ仕えてくれ、と言ったが百二十万石の家来がぞろぞろと米沢について来たというんですから、これは困ったことです。 
  勧進代新地というのが今もあります。山口新地とか米沢にも猪苗代新地がありますが、とても皆に給料を払えなかったのです。そこで、道路を新しく切って間口割といって、4間半づつ仕切り、ここから開墾すれば、どこまでもおまえのものだといったんですね。百メートルも行けば山だったりするところですから、そんなに土地は広がらないわけです。 そんな苦労をして家来をかかえておったんですから、今でいえば使用人が多すぎて給料が払えない状態で最初から無理だったわけです。それに上級武士が、百二十万石時代の贅沢な生活から抜け切れなかったので、非常に困りました。
 
  上杉重定の時代の享和の頃になるとバンザイしてどうにもならなくなった。その時に、上杉鷹山が高鍋藩の五万石から迎えられたことになりますが、最初は苦労したようですね。貧乏殿様の息子が、昔百二十万石の殿様のことがわかるはずはない、と重臣たちは最初からなめてかかっていた。彼らを押さえて自分の政策を行うには、かなりの苦労があったようです。その時に政治改革をやって、副業を奨励しようとしました。上杉藩の偉い人の考える政策は非常に形式的で、桑百万本・漆百万本・楮(こうぞ)百万本・・・すべて百万本なんです。畑ではない山を開墾して植えさせろと。そして米以外の収入で借金を返そうというわけですが、その百万本ずつで結局一番主になるのは漆のみから蝋を採ってローソクを作ろうという考えです。それで十万石分の利益を上げようという考え方でいたようです。その当時、九州で櫨蠟(はぜろう)という、燃えたとき漆よりも黒鉛の上がらない良質の蠟が作られて、それで漆蠟はうまくなかったらしいのですが、そういう情報には全然おかまいなしだったようです。ところが長井商人や荒砥商人は漆にはあまり本気にならなかったようです。
  京都と取引しているので丹後とか大坂・京都で生糸が相当高い値段で売れるので、養蚕をやった方が儲かりそうだという話はちゃんとわかっていて、自分で農家に蚕種を無償で与えて、養蚕を奨励したそうです。農民がそれを実行してみるとお金になるので、田圃をつぶしても桑畑にするものが増えて藩では困ったため、取締まらければならなくなった。田圃一反歩から米四俵とって、五貫文にしならなかった。桑を植えて蚕をおいて生糸までにすると、十六貫文でだいたい三倍です。しかも桑畑は手入れするのにそれほど手間はいらないのが、田圃ですと肥料を蒔くとか、草取りをするとか、労力が大変だというので桑を植える気になった。文政十年(1827)には米沢藩の中で、殿様武士のお膝元米沢では、養蚕はなかなか発展せず、水田専門にやれといわれてやったが、それも発展しなかった。しかし、長井、白鷹では飛躍的に養蚕農家が増えるということになります。

  丸大扇屋も商売のかたわら、生糸と青苧の仲買をやっていた。だいたいどのくらいの取引かというと1711年(正徳年間)に取引証文を見ると、村山の青苧がいいというので、村山から青苧をまとめて買ってきている、売上の代金では七十両というわけです。その当時一両で米二俵半ですから、今のお金すると相当のお金ですね。最上と宮内近辺と吉野周辺からは、丸大では特に多く買ったらしいですね。だいたい二ヶ所が普通ですから、年間青苧だけで百五十両の取引です。青苧というのは生糸もそうですが、非常に危険なんですね。五代目忠兵衛の時の借金証文がありました。小千谷の野口三左衛門から三百両の借金を背負うことになる。青苧を仕入れるため、小千谷の大きな店から前渡金というので、これだけ買って来いということでお金を借りるんだと思います。その前渡金の半分位村山の取引先とか、吉野の取引先とかにやるのではないでしょうか。ところが青苧が今年取れなかったからなんともならないと、言われると、丸大扇屋が結局責任負うことになって、差引残り三百両借金ということになりますね。これを返すのに、長沼家の六代目が非常に苦労したんですね。そんな時代でした。
  丸大の営業内容が六代目が三百両の金を返済する時の品物を見ると藁とか荒物類は一年間の売上賃出帳調べると五両ぐらいなんです。茶・煙草などの嗜好品に類するものが、0・五両。食品・食器類は七両二分。木綿・晒・ちぢみ・足袋等の反物呉服類が三十五両ですから。もうこの頃になると反物中心の取扱に完全に移っている気がします。


扇屋中興の祖 政盛 
 六代目忠兵衛政盛という人は中興の祖といわれていますが、なかなか学のあった人でした。その人の本を調べてみると「開平開立術聞書」という本があり、今で言うと中学校の三年くらいになるのか、高等学校に類するのか、例えば一つの例として茶碗の絵が描いてあって、茶碗のさし渡し三寸、深さ一寸五分何程入ると問う。といって、解法が細かく書いてあるというふうに、和算の勉強をしていました。ほかにもいろんな本が残っておりました。

倹約令で消えた祭り舞台 
 七代目に移りますが、先ほどの山車・屋台の話になりますが、七代目の天保の頃(1834)で、丸大に「人形具賃出帳」というのが出てきました。要点をまとめると、どこにどのくらい貸したかというのと、文化十年頃で借りている町は、新町・十日町・大町(大宿といいましたけれど)・川原町(境町、現在の栄町)・本町・あら町と六町内で一町内、一つずつ屋台を出しますから。いちいち場面転換するのに人形を買っていたんではたまらないから、丸大は五十年とか百年前から山形の人形師に人形の顔と大小さまざまな手をそろえて、お祭りの近くになると何々の人形貸して欲しいと借りに来るわけです。どんな頭がそろっておったかみると、
    大将頭(義家・秀吉・頼光)牛若丸・弁慶・菅丞相(惣髪は髪が長い)・悪人定繰九郎・巴御前・楚項羽・武内
    宿弥・武将頭(柴田勝家・佐久間玄丞・加藤清正)・老人白髪諸候頭・大小手足各種。

  歌舞伎の一場面とか物語の一場面で想定するので、これらを揃えておくと、秀吉の頭を別の名前にしても使えました。それで人形の手足、その他、刀の大小とか着物も丸大さんで作って貸し出ししていました。山の所は布で染めるとか、滝の所も花をあちこち飾る、そういう格好にすればいいのです。一回の貸出料が多い時で八百文、少ない時に四百文ということでした。 
  それから一般の町屋の生活に関わるんですが、天保の頃は飢饉が続いたんですね。1785年に宝暦の飢饉と大洪水・1785年に天明の飢饉・1835年に天保の飢饉とたくさん飢饉が続くので、米沢藩では借金も返さなければならなく、また「かてもの集」を出して、山菜、木の皮の食べ方を説明し、なおかつ、「大倹令」というのを出した。細く説明できませんが、何か大事な行事をするときや、結婚式や式のときも一汁一菜だということ。酒は一杯。着物は柄物の色のついたものは着るな。できるだけ古手で間に合わせろ。飲酒禁煙の制限で、祭・結婚式・葬式でも酒は二合以下だと。ぜいたく品の禁止として鼈甲(べっこう)製の櫛・から傘・日傘・下駄・足駄は履くな。芸能娯楽の制限で屋台・獅子踊り・神楽を普段の平服でやりなさい、ということでした。念佛踊りのときにはあのきれいな着物ではだめで、縞の着物にたちつけをはいてやれというんですから、おもしろくないというのでだんだん廃れてきたわけです。いくつかの例をあげてみます。 

  大石の祭りで神楽を上演しました。山の中だから見つからないでしょうと考えました。確かに大石では見つかりませんでした。でも上伊佐沢の神社でお祭りがあったとき、役人に見つけられ、罰せられました。肝煎も責任上処罰されました。 西大塚で女の子が、花柄の着物を着たところが、横目(監視する人)に見つかり親意図・肝煎・娘、皆罰せられました。獅子踊り・念佛踊りも平服(縞の着物にたちつけ)で行うように代官から指示があった。それで、おもしろくないというので、だんだん廃れてきたわけです。 人形貸出の記録を整理していくと何回禁止されたかというとのがよくわかります。
   文政四年に郡中洪水あり、屋台休み。
   文政五年、天徳院様御病気につき屋台休み。
   文政八年、米沢御城下大火につき屋台休み。
   文政九・十・十一年、紅葉山御普請(幕府の江戸の城の紅葉山のこと)手伝いで大倹令発令屋台休み。
   天保二年、七月松川洪水のため屋台禁止。
   天保四・五・八・九年、飢饉につき祭礼・屋台一切休み。

  18年間に十三回休み。だいたいこの頃から廃れはじめて、屋台も、念佛踊りもこの地方から消え失せた。そして、明治以後、やっと念佛踊りや獅子踊り、舟場の奴振りも復活しました。江戸時代の後半はそういう時代だったようです。


質素だった日常生活
 いよいよ町屋のくらしの話になりますが、私も小学校に入る前まで、長井の播磨屋で生活しましたから、ダンナシ(金持ち)の生活というのは解っていますが、金持ちほどケチというか粗末なものでした。警察官とか中学校の先生とかの子供のほうがずっと食べ物も良く、いい洋服を着ていました。うらやましく思いました。弁当は日の丸弁当や納豆味噌の弁当でした。それがダンナシの生活でした。それぐらいケチらないと貯まらなかったんじゃないでしょうか。月給とりの人の生活の方がずっと良かったと思います。丸大扇屋の生活を調べてみると、どこの家もパターンは同じようでした。今の長沼孝三先生(平成5年没)の彫塑館が建っている所も野菜畑でした。どこの家でも後ろは野菜畑にしていました。まわりの土地を貸していましたから、だんだん狭くなったと思いますが、生活に不自由しないように大豆・キュウリ・ダイコン・ナス・ウリは家で作りました。 
  少し金が貯まると味噌蔵を造って、大きな樽に味噌を作って、食べるのが三年味噌、底の方にナス・キュウリ・ウリを味噌漬けにしておかずにする。醤油なんて口にしたことはなかった。味噌漬けにした後に味噌に水分がういてたまるのをたまりとして醤油のかわりに食べていたようです。一汁一菜でした。おそらく旦那さんは茶の間でちゃんとしたお膳で食べたでしょうが、奥さん以下長男もみんな台所で食べていたと思います。お膳は旦那さんとは別で黒い小振りのお膳でした。茶碗やそのほか一揃いついていて、ご飯を食べ終えると、お汁にお湯を注いでかき回して全部飲み干す。そんな事が記憶に新しいです。鯉は自家用で飼っていて、お盆とか正月には鯉の甘煮を食べたものです。めったに食べられないものでした。
 

 旦那さんが一人で食事を茶の間でとっていた

旦那さん以外は台所で食事を

池 台所から流れてくる残飯が鯉の餌だった

  丸大屋敷では、内蔵と味噌蔵は古いものですが、文政元(1818)年に自分の家の失火で店・母屋を焼いています。それでも店はすぐ再建しました。これが金を儲ける人の根性だと思います。しかし、明治二十三年まで母屋は仮住まいでした。風間さんからお婿さんを貰う時になって、ようやく母屋を建てたのです。金を蓄えた。商売人の考え方が一般人とそのぐらい違うんです。 
  飢饉が続いて商売の利益が少ない時、生活費をきりつめ、借金を返すことをまず第一とし、商品を仕入れて儲けるために売ることを第一とします。商売上の利潤を商品だけに再投資するのじゃなく、幕末からは土地に投資していたようです。収入の半分くらいは、土地に投資していました。地主というのはいい商売だったようです。その当時、一反歩から四俵採れると、二俵小作米があがりました。百姓の年収の半分がただで入ってくるんです。こんなにいい商売はないですね。播磨屋さんは田圃の収入を上げるために、寺泉とか勧進代とか鮎貝、平野とかの周辺部のなるべく安い土地を買った。 

  丸大扇屋は町の真ん中の畑・田圃を買った。それが、明治から大正になると畑・田圃が住宅地不足のために宅地化された。そうすると、「反」なんぼのものが、「坪」なんぼですから、こんなにいい儲けはない。頭が良かったんですね。長井の金持ちは次々倒産している場合が多い中で、丸大さんは着実に資産を伸ばしました。あら町の丸川さんは当時、米沢一の金持ちだと言われながら、戦前に倒産しています。山五さんは長井では丸川さんに次ぐ大金持ちだったのですが、倒産しています。それは水田からの小作料で収入を得、生糸相場に手を出した人はだいだい失敗しています。アメリカの生糸相場に左右されたんですね。蚕も運の虫だと言われました。丸大扇屋でも明治の初め頃には五月の初めから六月にかけて、畳を全部はがして蚕を置いただろうといわれています。 どれだけの節約をしたか、大福帳を拾ってみました。文政六年のを見ると、娘のきんさんの結婚式の七つ目のお祝いというのがありまして、調べてみたのですが、餅米一斗蒸かしてるんです。お客様は仲人のおつるさん、丸中のおこと、おさん、小松からおようさん、向かいのおこんさん、伊左衛門隠居と六人が呼ばれました。お膳についたものは、にしん汁、にしんの平(平たいどんぶり)、にごり酒とお蒸かし。今考えると実に質素です。引物は仲左衛門さんに酒三盃とふかし二重。仲人の清左衛門さんに豆腐二丁と蒸かし一重。千松、伊左衛門、清助と続きます。これは山清さんと比べてみても質素な気がしました。 
  天明五年、忠兵衛さんが死んだ時のお見舞いを調べてみると、最高が四百文で最低が五十文とか蝋燭五丁です。六貫二百六十文で米百五十キロですから、四百文というと米にして十キロ。今のお金でだいたい4,000円くらいですか。最高のお見舞いで4,000円くらいですね。今親戚だお20,000円とか50,000円とか多いですね。寺の支払いはいくらかというと、摂取院・遍照寺で一貫百文のお布施、礼返しが二百三十文。一貫百文は米で三十キロ。10,000円くらいでしょうか。今と比べものにならないくらいですね。この当時の中級のお金持ちの付き合いというのはこの程度だったようです。 
  天保五年の家族構成をみますと、家族十二人。召使二人で、まだ店の番頭はこの頃使っていなかったようです。また、伊佐沢の鈴木重信さんの祖先で鈴木光里さんの娘、とくという人が天保五年に嫁入りするんですが、その時の嫁入り道具の一覧表があります。金目の品物だけ拾っても、鼈甲のかんざし、こうがい、象牙、ギヤマンのかんざし、紅粉、傘、下駄、足駄、日傘などです。見せびらかすのではなく、タンスや長持ちの中にそっと入れて、見つからないようにしましたが、もっと上級な家などは商人の力が強くなって、殿様の言うことなんか誰も聞かなかったようです。


天保五年の家族構成
父       又左衛門    七二
母                 六八
主      長沼忠兵衛  四二
妻                四三
弟       林四郎      二八
娘           つね        二二
娘               りう         一六
子               米吉        一三
子               大助          八
娘               よそ           四
召仕         六左衛門      三四
召仕             庄蔵           二一
                     (計男七人 女五人)
 

趣味としての俳諧 
 ここでずいぶん俳諧が流行して、竹田太橘(たいきつ)さんとか、川崎玄子(げんし)さんとか有名な方が出ましたが、七代目忠兵衛政成さんという人も老後隠居してから俳句をたしなんでおり、「好茶園」という名前で句を詠んでいました。それだけではなく、「百歌述解」とか「幕末世情之事」なんか丹念に書いた本があります。アメリカがやって来てこうなったとか、幕府がこういう条件で条約を結んだとか、桜田門でこうなったとか、結構このころの時代の人は、世の中の動きに関心が深くて、すべて記録していたようです。商売だけで何も知らないというような時代ではなかったようです。「籍懐玉」という本は彼の俳句を丹念に綴ったものですが、その当時の事情なんかも書いてあります。その一部を載せてありますが、「嘉永六子の年、大早、地をからし赤土のごとく稲苗なし。七月十二日初めて大雨降る。」   
    ゆるゆると 民和らぎし きょうの雨   
    きのうきょう 枯野と見しが きょうの雨   
    老いの身と なりても梅の花匂う  
    梅の香に ゆかしき恵の ひざしかな                 
                           兎園

 友達の兎園という人が遊びに来て一緒に詠んだのだろうと思われます。兎園は宮におったお医者さんですが、子孫は台町の齋藤孝太郎さんです。骨董屋の兎園堂というのが屋号なのですが、先祖の俳句の雅号なのでそういう名前をつけたようです。七代目忠兵衛もこういっていいます。
  「俳句にのめりこみ、家産を失う程のことでなく、余技として楽しむべきだ」とちゃんと心得ていたのです。この時代、俳句にのめりこんで家産をなくしたという人が多いんです。竹田太橘さんは大きな米屋でした、四十過ぎてから子供に家業を譲って、自分が前から好きだった俳句を勉強するために、江戸まで何回も行っています。俳句で家をつぶす程かなり一生懸命だったようです。山清さんの家でも左琴という俳句読みの方がおりますが、家産を失う程のことはなかった。あくまでも趣味、余技として行った。 
  丸大扇屋が本当に経済的に良くなったのは明治五年以後です。けっして贅沢はやっておりませんでした。一番に一生懸命紬を織って売った。自分の家でやるのではなく、新町の農家の人に生糸を与えて賃織りさせていたのですが、三十四年から四十年あたりにかけて、大阪とか東京の品評会あたりに盛んに出しておりました。


最上川舟運の名残

車箪笥には証文など重要なものを入れていた

 火事についても二回くらい焼けており、車箪笥は火災のときのためのものです。着物を入れておくのではなく、金を貸した証文とか重要書類を入れておくものです。綱がついてありますがぐいぐい引っ張って出したものです。
 丸大扇屋の仏壇に嘉永五年と書いてありますが、最上川を通して大阪から買ったのでしょうか。大変いい仏壇です。前の庭にある燈籠は、雲州燈籠といいまして、雲州ですから出雲の国、今の島根県で作られたものです。大阪から瀬戸内海を通って下関を通り新潟から酒田に来る船が千石船といいますが、今のトン数でいうと150トンくらいの木造船でした。昔佐渡に行くおけさ丸が600トンで揺れることがありますが、その四分の一の大きさでした。空になると浮き上がって危険なので、帰りの船に積むものがないと石とか塩とかたくさん仕入れて重石のかわりにして持ってきたのを安く売ったようです。その意味で雲州燈籠というのはこの辺に多いんだろうと思います。
  丸大扇屋が、明治以後水田を貸家として貸せるようになり、その数は四十数件に上り、家賃も相当なものでした。家賃や小作料を納めに来ても、台所で用を足すというのがその頃の格式でした。地主であり、大商人であり随分格式の高い家だったようですが、生活は非常に慎ましやかな家でした。

嘉永五年  大坂から買ったと考えられている


雲州燈籠  四基あるうちの一つ

長沼市太郎 
  長沼市太郎さんという最後の代の方は、昭和二十年に亡くなられ、大変な文化人でした。私とよくおつき合いいただきました。私は後輩で、名前も同じでしたので、かわいがっていただきました。郷土史に関心があり、「金剛会文庫」を一集から三集まで出して、「牛の涎」などの古書の中の郷土に関する文を全部活字に著しました。
  「金剛会」という謡の会を開いて若い人の精神修養のために役立てたり、非常に人望が厚い人でした。また、生真面目な方で、戦争に協力する団体(大政翼賛会)でも上の方にまつり上げられていましたが、本当はいやだったようですね。戦争がひどくなると、統制で店の方も閉めなければならなくなり、自分が組合長の立場では、最後まで店を開けているわけにもいかずに、いろいろ気苦労が多かったようです。 
  その後もばあちゃんがちゃんと商売をなされましたが、亡くなられ無住となりました。それで、割合昔の姿が保たれておった。後に、土地、屋敷を市に寄付されたことは大変ありがたい文化遺産といえるでしょう。

置賜の典型的な店屋造り 

  屋敷の建物の配置は、道路に面して店、店蔵、その間に出入りする小間屋門、雪国のように雪よけのために上越市の高田では「雁木(がんぎ)」といっていますが、雪が積もるとだんだん戸板を重ねて行き、雪が入らないようにしました。家財道具をしまう内蔵があり、味噌蔵があり、小作米や籾をしまう納屋があり、屋敷内に畑があるというようなかたちですね。長井、西置賜の家の配列は店の方から取り継ぎがあって座敷・茶の間・台所と模式的なんですね。しかも台所に汲み上げ井戸が残っており、流しは入水をいれて使っていたのが今も残っている。
 
ダイドコ 奥に流しがある

 
風呂場

   
                           
右奥が上段の間 手前が二の間

 
小間屋門をくぐると母屋に通ずる
 
  明治期の長井の代表的な建物というのは、ここ丸大扇屋と山清さんと岩城屋さんしかなくなりました。若い人の代になり、建て替えをしてしまうので、市にでも寄付していただかなかったら、江戸末から明治にかけての代表的な店屋の構造を持った建物は残らなかったのではないかと思います。
  一昨年、ギャラリーの旅行で妻籠・馬籠をみてきましたが、見事に昔の建物が残っておりました。電柱も地下埋設していました。その時思い出したことですが、山清さん、山一さんの工場・母屋・山一お茶屋さん、川崎八郎衛門さんと山清さんの一角ですが、江戸時代そのままです。おそらく現在、人が住んでいるのでそのまま残ることはないと思います。若い人の代になるとおそらく無くなるだろうと思います。山一お茶屋さんの旦那さんは、こだわって昔のものを残そうとしていますが、そういう人はわずかだろうと思います。

あら町に残る町屋  山清  現在はやませ蔵美術館として入館することができる


山清の南側に位置する山一醤油  奥に醸造蔵がある


山清の道路向かいには山一お茶屋が

  丸大扇屋はこのようなかたちで残りました。もし、お孫さんが夏休みに帰ってきた時など一緒に連れて来ていただいて、昔炉端で生活したことや、井戸水をこうして汲み上げて生活した話をなさったり、茅葺屋根は以外に涼しいとか、昔の住まいというのは、わりあい自然の気候を活かしながら、うまくやってきた。というようなことを、想いおこしていただければと思います。昔のたたずまい、昔の暮らしを偲んでもらいたいと思います。
(竹田市太郎 山形県文化財保護指導委員/長井市文化財調査会会長 平成9年公開記念講演より)
2013.07.04:[歴史的建造物]
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