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丸大扇屋物語

丸大扇屋物語 
         
   舟運で栄えた長井そして幕末から明治にかけての京文化ただよう町屋のただずまい・・・・・。旧長井町の北部十日町で、古くから反物商を営んだ丸大扇屋の建物群が平成15年5月、県指定文化財となりました。町屋の歴史を年表と写真で紹介します。(資料提供:文教の杜ながい)
 
 丸大扇屋の建物が、平成15年5月9日、県の文化財に指定されました。古くは天保3年の年号が書かれた祈祷札(きとうふだ)が残る味噌蔵から、大正2年に建てられた新座敷まで全部で7棟です。指定に当たり建物を調査された東東北芸術工科大学の宮本長二郎教授は、「丸大扇屋は創立以来の由緒が明らかで、屋敷構えは大正3年以前の豪商の姿を伝え、その後の増改築が少ない点でとても珍しいものです。また母屋以下の各建物は、建設された近世・近代の各時期の先進的な様式技法を示し、伝統的な木造建築の近代化の課程を追うことができる点で、学術的に貴重で、意匠的にも優れている」と調査で述べています。

  これらの建物は、これからもふるさとの宝として、後世まで伝え、生涯学習やまちづくりに活かしていこうと思います。また、市内には市民運動で残ったものを含め歴史的建造物が多く残っています。これからもまちの顔として大切にしたいものです。


北口(風間書店側)から中に入ると、左に店蔵、右に店、前方右に母屋、正面にに新蔵(座敷蔵)があり、またたく間に時代を逆戻りしたかのようだ。


母屋正面の庭は、舟運でバラスト(舟を安定させるための底荷)代わりに積まれ運ばれた雲州(うんしゅう、島根県東部)灯篭が四基ある。庭の造りにも京文化の影響が随所に見られる。一番大きな石は、市内西根川原沢産の白い石で苦労して運んだ話が伝わる。



店と店蔵の間から屋敷に入る。間口が狭く奥行きが長い地割は京都風の影響だ。隣の新町、小出のあら町にも見られる。

 
味噌蔵は何度も修繕、あるいは材料が再利用された跡があり、棟の下の牛梁(うしばり)などの様式から18世紀までさかのぼるだろうと推測される。この建物は市内の古文書、歴史、教育資料を収蔵している。


母屋(おもや)の帳場箪笥(ちょうばだんす)と帳場格子(ちょうばごうし)、当時の家具や食器類もそのまま残っているのは貴重だと評価された。


母屋の前の雁木(がんぎ)造り、新潟県など雪国に多い構造だが、通りに面していないのは、珍しい。
 
 
丸大扇屋の

1640(寛永17年)このころ初代長沼忠兵衛が椿(現飯豊町)から宮へ出、店を構える。初めは荒物、紙など商う。
1694(元禄7年9最上川舟運、宮まで開通
1711(正徳元年)青苧、生糸、真綿を仲介
1757(宝暦7年)宝暦の大水
1764(明和元年)丸大扇屋と称する
1785(天明5年)天明の飢饉
1800(寛政12年)この頃から木綿、古手、糸、綿などを商う
1818(文政元年)店から出火、母屋も焼失
1832(天保3年)味噌蔵にこの年の年号が記された棟札が残る
1836(天保7年)天保の飢饉
1844(弘化元年)7代目忠兵衛宮村肝煎になる
1848(嘉永元年)店、店蔵にこの年の年号が記された棟札が残る
1862(文久2年)十日町に市神の石塔立つ
1889(明治22年)小出村と宮村が合併、長井町となる
1890(明治23年)第3回内国博覧会に長井紬出品
母屋を建造
1898(明治31年)新蔵を建造
1913(大正2年)新座敷を建造
1914(大正3年)赤湯・長井間鉄道開通
1920(大正9年)生糸織物株価大暴落
1930(昭和5年)世界恐慌日本に波及
1934(昭和9年)東北大冷害
1944(昭和19年)東京江戸川区の学童疎開受け入れる
1945(昭和20年)太平洋戦争敗戦
1954(昭和29年)長井市誕生
1988(昭和63年)丸大扇屋を市に寄贈
1990〜1991(平成2〜3年)全体の改修が行われる
1991(平成3年)丸大扇屋が市指定文化財に
1992(平成4年)長沼彫塑館開館
1995(平成7年)丸大扇屋資料館として公開
1997(平成9年)山形経済同友会から景観デザイン賞を受ける
2003(平成15年)丸大扇屋が県指定文化財に
 
2013.06.24:[歴史的建造物]
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