あやめ公園開園記念碑物語
あやめ公園の中央にひっそりと佇む石碑があります。それは、あやめ公園を開園したことの記念碑。しかし、そこには深い物語があります。明治の川柳界を代表する井上剣花坊、近藤飴ン坊、大谷五花村が「あやめ公園」を詠んだ川柳が刻まれています。
(元あやめ愛好会会長 高橋忠吉 「あやめ公園回想録」から抜粋しました。表記も当時のままとしました。)
あやめ公園開園記念碑
青年議員として活躍された長井町会議員遠藤利吉は、公園係として水上の白井氏を起用し、公園大改革をし、第一に公園入口を高台中央に移し、また大柳の南へ築山を造り、その頂上より5馬力の人工滝を造り大いに好評を博し、中央部に噴水を造り、夏の涼味を一層よくした。
その頃長井駅前通り、陳列館の西隣に、中村現蔵という元本町にて材木屋を経営されたが、今は転業されて仲介業をもって、難問題の家財整理などに奔走されて、よく双方丸く収め役をしておった、と聞く。この人は気骨のある性格、男伊達気分の持ち主であった。また骨董品、ことに瀬戸物の識見たかく、商売人はだしという方であった。筆者も商売上お伺いして、いつとなく親交を厚くした。
ある日、金田勝見氏の話題となり、金田氏の記念碑建設について、大いに賛成されたので、大体の予算を作り、その諸経費は中村現蔵氏(駅前)、町内有志より寄附金を受け、句碑の件は筆者に一任されたのであった。
当時、東京の井上剣花坊(いのうえけんかぼう)、近藤飴ン坊(こんどうあめんぼう)といえば、全国的に知られた川柳の大家であったので、せめて大家に、句ならびに御揮ごうを、そのまま句碑に刻みたいと念願すれども、筆者の手に及ばず、成田の医王院主、伊藤蘇堂先生は、大正川柳時代、剣花坊の元に、全国の川柳番付では大関の地位を張られていた程の川柳家で剣花坊とは子弟の間柄なるをもって、この件を懇願せしに、よく御了解を得たので、剣花坊、飴ン坊の句、ならびに揮ごうを一任し、われら一同感謝の意を表した。
中村氏は、各有志、寄附願いに訪問されたが、公園関係に関しては、金田勝見ばかりでなく、「我もこの際こうした」などという人が続出し、「金田勝見個人に対する句碑とはけしからん」という反対の声もあるので、「開園記念碑」という題目に変更して、その間一年あまり頓挫して、翌年川柳大会に大谷五花村(おおたにごかそん)先生御来会を期し、あやめ公園の句、ならびに揮ごうを願うこととしているうちに、成田の伊藤蘇堂先生より、小生宅まで剣花坊と飴ン坊両先生の揮ごうされた句稿が届けられたのである。
金田かすみ君をおもうて(かすみ…柳号)
人去りて地に紫の詩が残る 剣花坊
魂はゆかりの色もよみかへり 飴ン坊
いずれも、金田かすみ氏を偲ぶ天下の名吟により「金田かすみ君を思うふて」をとりはずし、石屋に依頼した。
その年の7月、長井川柳会主催の川柳大会に、(福島県)白河より、毎年招待して列席された大谷五花村(おおたにごかそん)先生に、特にこの建碑の事情を打ち明け、公園に対する句をいただいた。
名園の花を生かして絵雪洞 五花村
この句を入れて3句刻ませて、一般有志の了解を得て、題字は県立長井中学校(現長井高校)教諭の佐藤剛先生(俳号:柊坡)に依頼して、「開園記念」と独特の筆法により揮ごうされた。これをいっさい石屋にまわした。
昭和12年7月11日、同時に川柳大会を開催し、除幕式の運びとなり、中村氏の多大なる御後援に厚く謝し、記念撮影を行った。今日現存する柳の木の下に(現在は公園中央に移設)、金田勝見氏よ永遠に眠る句碑による、感激一族の感無量なる記念碑となる。
右から3番目が大谷五花村。昭和12年の除幕式。
平成12年 あやめ公園改造整備により、公園南から中央部に移設された。
剣花坊
飴ン坊
五花村
人物紹介
井上剣花坊(いのうえけんかぼう)
明治3年〜昭和9年。山口県萩市生まれ。萩藩士の井上吉兵衛の長男として生まれ、幼名は七郎後に幸一と改める。川柳作家となってからは、喧嘩早い性格を自覚して剣花坊(=喧嘩坊)を名乗った。ほとんど独学自習により地元小学校教員となる。後に山口町(現山口市)の新聞社記者を経て、明治33年に上京、雑誌記者となり文芸欄担当。明治36年に日本新聞社入社。同社の新聞「日本」紙上において正岡子規が俳句を復興したことから、狂句に陥った川柳の再興をすすめられて取り組む。新聞編集のかたわら「新題柳樽」(後に「新川柳」)欄を設け、剣花坊の名前で作品を発表、川柳の改革復興に努めた。明治38年には新聞社を辞し、柳樽川柳会を組織、機関紙「川柳」を創刊した。革新川柳を提唱して各種新聞の川柳欄等を担当、毎月句会の催した。「大正川柳」、後に「川柳人」などの川柳雑誌を主宰し、門下生を全国に広げていった。作家の吉川英治も門下の一人。雄大豪放な作風で川柳中興の祖と称された。
(萩市「萩の人物データベース」より)
近藤飴ン坊(こんどうあめんぼう)
明治10年生まれ、昭和8年没。飴ン坊と剣花坊との出会いは、剣花坊が新聞「日本」に柳壇を開設した明治36年の投書からで、飴ン坊が応募の第一号であった。柳号を京号としたのだが、剣花坊が飴ン坊とつけた。
大谷五花村(おおたにごかそん)
明治24年、福島県五箇村(現白河市借宿)に生まれる。井上剣花坊に川柳を
学び、剣花坊の「大正川柳」同人。吉川英治とは深い親交があった。五箇村長井・白河町長・貴族議員をつとめる。昭和33年没。
(元あやめ愛好会会長 高橋忠吉 「あやめ公園回想録」から抜粋しました。表記も当時のままとしました。)
あやめ公園開園記念碑
青年議員として活躍された長井町会議員遠藤利吉は、公園係として水上の白井氏を起用し、公園大改革をし、第一に公園入口を高台中央に移し、また大柳の南へ築山を造り、その頂上より5馬力の人工滝を造り大いに好評を博し、中央部に噴水を造り、夏の涼味を一層よくした。
その頃長井駅前通り、陳列館の西隣に、中村現蔵という元本町にて材木屋を経営されたが、今は転業されて仲介業をもって、難問題の家財整理などに奔走されて、よく双方丸く収め役をしておった、と聞く。この人は気骨のある性格、男伊達気分の持ち主であった。また骨董品、ことに瀬戸物の識見たかく、商売人はだしという方であった。筆者も商売上お伺いして、いつとなく親交を厚くした。
ある日、金田勝見氏の話題となり、金田氏の記念碑建設について、大いに賛成されたので、大体の予算を作り、その諸経費は中村現蔵氏(駅前)、町内有志より寄附金を受け、句碑の件は筆者に一任されたのであった。
当時、東京の井上剣花坊(いのうえけんかぼう)、近藤飴ン坊(こんどうあめんぼう)といえば、全国的に知られた川柳の大家であったので、せめて大家に、句ならびに御揮ごうを、そのまま句碑に刻みたいと念願すれども、筆者の手に及ばず、成田の医王院主、伊藤蘇堂先生は、大正川柳時代、剣花坊の元に、全国の川柳番付では大関の地位を張られていた程の川柳家で剣花坊とは子弟の間柄なるをもって、この件を懇願せしに、よく御了解を得たので、剣花坊、飴ン坊の句、ならびに揮ごうを一任し、われら一同感謝の意を表した。
中村氏は、各有志、寄附願いに訪問されたが、公園関係に関しては、金田勝見ばかりでなく、「我もこの際こうした」などという人が続出し、「金田勝見個人に対する句碑とはけしからん」という反対の声もあるので、「開園記念碑」という題目に変更して、その間一年あまり頓挫して、翌年川柳大会に大谷五花村(おおたにごかそん)先生御来会を期し、あやめ公園の句、ならびに揮ごうを願うこととしているうちに、成田の伊藤蘇堂先生より、小生宅まで剣花坊と飴ン坊両先生の揮ごうされた句稿が届けられたのである。
金田かすみ君をおもうて(かすみ…柳号)
人去りて地に紫の詩が残る 剣花坊
魂はゆかりの色もよみかへり 飴ン坊
いずれも、金田かすみ氏を偲ぶ天下の名吟により「金田かすみ君を思うふて」をとりはずし、石屋に依頼した。
その年の7月、長井川柳会主催の川柳大会に、(福島県)白河より、毎年招待して列席された大谷五花村(おおたにごかそん)先生に、特にこの建碑の事情を打ち明け、公園に対する句をいただいた。
名園の花を生かして絵雪洞 五花村
この句を入れて3句刻ませて、一般有志の了解を得て、題字は県立長井中学校(現長井高校)教諭の佐藤剛先生(俳号:柊坡)に依頼して、「開園記念」と独特の筆法により揮ごうされた。これをいっさい石屋にまわした。
昭和12年7月11日、同時に川柳大会を開催し、除幕式の運びとなり、中村氏の多大なる御後援に厚く謝し、記念撮影を行った。今日現存する柳の木の下に(現在は公園中央に移設)、金田勝見氏よ永遠に眠る句碑による、感激一族の感無量なる記念碑となる。
右から3番目が大谷五花村。昭和12年の除幕式。
平成12年 あやめ公園改造整備により、公園南から中央部に移設された。
剣花坊
飴ン坊
五花村
人物紹介
井上剣花坊(いのうえけんかぼう)
明治3年〜昭和9年。山口県萩市生まれ。萩藩士の井上吉兵衛の長男として生まれ、幼名は七郎後に幸一と改める。川柳作家となってからは、喧嘩早い性格を自覚して剣花坊(=喧嘩坊)を名乗った。ほとんど独学自習により地元小学校教員となる。後に山口町(現山口市)の新聞社記者を経て、明治33年に上京、雑誌記者となり文芸欄担当。明治36年に日本新聞社入社。同社の新聞「日本」紙上において正岡子規が俳句を復興したことから、狂句に陥った川柳の再興をすすめられて取り組む。新聞編集のかたわら「新題柳樽」(後に「新川柳」)欄を設け、剣花坊の名前で作品を発表、川柳の改革復興に努めた。明治38年には新聞社を辞し、柳樽川柳会を組織、機関紙「川柳」を創刊した。革新川柳を提唱して各種新聞の川柳欄等を担当、毎月句会の催した。「大正川柳」、後に「川柳人」などの川柳雑誌を主宰し、門下生を全国に広げていった。作家の吉川英治も門下の一人。雄大豪放な作風で川柳中興の祖と称された。
(萩市「萩の人物データベース」より)
近藤飴ン坊(こんどうあめんぼう)
明治10年生まれ、昭和8年没。飴ン坊と剣花坊との出会いは、剣花坊が新聞「日本」に柳壇を開設した明治36年の投書からで、飴ン坊が応募の第一号であった。柳号を京号としたのだが、剣花坊が飴ン坊とつけた。
大谷五花村(おおたにごかそん)
明治24年、福島県五箇村(現白河市借宿)に生まれる。井上剣花坊に川柳を
学び、剣花坊の「大正川柳」同人。吉川英治とは深い親交があった。五箇村長井・白河町長・貴族議員をつとめる。昭和33年没。
2013.06.19:[あやめ]